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<自我>


(前文からの続き・・・)
 

 こころのとらわれが、病気の原因となっていくことは確かなことです。医学的にはストレスなどの言葉を使う場合もありますが、こころの問題だけにとどまらずに、さらに深い次元との接点によって病気の成り立ちがあると考えられます。
  こころは魂によって統制されているものですが、人間という感情生命体がこころの在り方によって大きく魂とずれて、魂との不一致という現実的な因果律の結果が、現象としておきてきます。魂という内なる自然とのバランスが一致しない時に病気がおきてきます。魂との不自然なアンバランス、これが病気をつくり出していきます。
  すでにあなたがたは、魂の存在については充分に知っていまがあると思いますが、魂という自然の力とのバランスを、どのように現実的に受け止めるかが、日常生活での霊妙不可思議なできごとかと思います。
  日常生活をする上で、いろいろと雑事がある人ない人、いずれの場合でも病気は存在しています。悩みを普段もつ人も、もたない人も、いずれの場合でも病気は存在しています。いずれも心のとらわれが、病気の根本的な原因をつくり出しています。「病は気から」といわれるたとえは、あきらかに事実です。しかし真実は、限りなく深く無限です。神経質な人も、神経質ではないと思っている人も、どちらの場合でも病気が存在しています。
  病気を元気に戻していく力は、魂からおきています。現在健康な人達は、いったいだれに感謝をしているのでしょうか。「お医者さん」ですか?答えはノーです。「自分の力」ですか?答えはノーです。いろいろと反論も多いことかと思いますが、どうぞ私のこれからの医の原点について、ご自分のこころをみながらお読み下さい。
  人間の生命を解析していきますと、あきらかに本質として、魂の存在にいきつくことになります。魂とは、生命を左右している見えない不思議な「いのち」として実在しているものです。あなたがたの生命を指示している、霊妙不可思議な存在です。科学的な機械に取り出すことは不可能です。医学的診断機器に写し出すことも不可能です。
  仮にだれかが自信をもって「魂を取り出して機械に写すことができる」と言われるならば、それは嘘だとはっきりと言えます。魂とは見えないけれども、はっきりと大いなる意志をもち、実在しているエネルギー体としての存在だからです。
  ひとくちに魂と言っても、霊妙不可思議、不可知、不可称です。理屈で物事を考えるしかできない人には、最初から無理です。理屈抜きで魂を求める人のみが、生命を左右している不思議な存在を確認することができます。つまり医の原点を理解し、納得して生きるためには、魂という存在を認識するという大前提を知らなければなりません。
  生命とは、生きているエネルギーのことです。
  肉体は原子の集合ですから物質です。この原子の集合体に生命が存在することによって、生きている証明がおきているといえます。人間は肉体の死によって生命が分離して物質となりますが、ここでその生命を分析すると、どのようになるかを考えてみたいと思います。
  生命はあきらかにエネルギーとしてあります。そのエネルギーとしての構成要素は、本能、感情、思考、意思として大きく分けることができます。これらがこころとして反応しているのが、通常のいわゆる人間生命としての姿かと思います。
  こうした人間の、実に奇妙なまでに不思議な生命体をどこまでも追求していき、魂の存在に気づき、体験そして体得していくことになります。

 つくづくと人間の生命の不可思議なことを、どのような言葉であなたがたに理解していただこうかと思いながら、真実からの言葉として書かされています。
 生命はあきらかに本能の強いこころ、感情の強いこころ、思考、意思の強いこころをもってさまざまな様相をつくりながら日常生活があるようです。ひとつの物事をしようとする時に、人間という感情を中心としている生命体は、あきらかにこころの反応をおこしながら生きていることに、あなたがたはもっと冷静な判断のできる本当の大人の心になる必要があると思います。そうしないと魂との接点がずれてしまい、暗い世界にいくことになります。
 これが不慮の事故や、病気などの世界です。
 たとえばひとつの物事を簡単に考えることは、あなたがたのこころのなかに、取るに足りないものだという、最初から取り決めのようなこころがあるということになります。(私のこの意見は考えすぎからきた言葉ではありませんので、誤解をしないようにしてほしいと思います)。
 逆にひとつの物事をする時に複雑に考えることは、こころのなかに自分でしか判断しないという、自分中心の考え方の強いこころがあるといえます。
 どちらのこころも、とらわれているこころだとあなたがたが理解し納得できるならば、大変にすばらしいことです。
 こころは常に、ひとつ所に留まることがありません。瞬間にあらわれて消えていきます。それがこころです。さまざまなこころの状態をつくり出しているのが、脳細胞などの働きですが、脳細胞に刺激を与えて現象をつくり出していくエネルギーはどのようになっているか,大変興味深いものだと思います。物を見る、物を判断する、物を区別するなどの作用は、いずれも生命反応のひとつとして行なわれている生命の仕組みです。
 受・想・行・識という言葉は般若心経のなかの一説ですが、生命反応をあらわしている言葉として有名です。魂を中心にすべての物事を考えて生きるならば、なにごとも諸行無常となっていることに実感が伴っていきます。このように内部的な物事をとらえて、こころの成長をして生きることが、物事の原点として大変興味も深いことといえます。
 医学とは、病気を治していく手助けをしていることは確かなことです。現代医学は物質的視野に立つならば、実にすばらしい科学の進歩をしているといえます。しかし精神的な物事のとらえかたは、実に幼稚としか思えないのが、今日の医学的なこころのとらえ方かもしれません。もっと人間の本質に立ち返り、もっと理性的に判断のできる、こころが成長している本当の大人としての感性が大切だと思います。魂を中心として物事を語ることが、ほとんどできていない職種のひとつといえるからです。
 はっきりと生命をコントロールしている魂の存在があることに、謙虚になれる人とそうなれない自我を張る人とに分かれてしまいます。魂が生命をコントロールしていると言うならば「それをいま、ここで見せてみろ」とか「わしの病気を、さあ治せ」とか言って、自分のこころの努力を無視しておきながら、やみくもに魂に責任を転嫁するようなこころがおきる方が多いようです。このような場合、こころの姿勢が高いといい、このこころをとらわれといいます。
 私の話はあくまでも、自分という自我を中心に話をしているのではありません。あくまでも魂を中心に話をしています。
 医学の原点とは、こころが成長をしていく時に、肉体に健康がおきることをいいます。こころの成長は、魂の存在を認めていない限り永遠に果たすことはできません。


 


舟木正朋